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    Works 225
  • 優しいということ

    2011/07/11

    maro日記

    優しいということを考える。
    私にとってだ。
    それも、すごく仲のいい人、家族、友達、恋人…
    そういうものに対して。


    私は以前、今以上に精神的にしんどかったから、
    誰かに助けてほしいと思っていた。
    例え誰にも関わりたくない!と思っていたとしても、
    それは、
    『どうせ関わっても誰もわかってくれないじゃないか!』
    ということで、わかってほしい、
    自分の気持ちを受け止めてほしい、
    という気持ちはもちろんあるし、
    やっぱり助けてほしいのだ。


    私は以前考えていたことがある。
    たとえ話みたいなものだ。
    ちょっとイメージしてみてほしい。


    私は庭付きの家の中にいる。
    そして、外に私を助けようと
    してくれている人がいるとする。
    その人は叫ぶ。
    『大丈夫?』
    私は『しんどい。』

    そんなとき、もしその人が本当に私にとっての
    優さを持っていたらどうしてほしいか?
    1.そっとしておく
    2.庭に入る

    もちろん2だ。
    たぶん知り合いくらいの立場なら、
    1だ。入ってきてくれても、
    その人はきっと最後まで
    この気持ちに付き合うことはできないから。

    さて、庭に入り叫ぶ。
    庭の外から相談もうける。
    話はもちろんつかない。
    だって、中にいる私がしんどいのは、
    何かがあったことということよりも、
    もうそう感じてしまっていて、
    しんどいに取り憑かれているから。

    でも外にいる人は、原因や対処法を探して
    解決できると思っているから、
    話してもムダだと思って、そこで帰る。
    特に自称優しさに自信のある人は。

    もちろんすべてではないけれど、
    自称優しさに自信のある人は、
    相手に対して何があっても怒らない。
    いつも笑っていて、相手に気も使う。
    そんな人が多いように思う。



    話を戻そう。
    庭と家の中というこの距離感が縮まらないことが
    私は多かった。家族も恋人も…
    そして庭から家に入らないことが、
    優しさだと思っている人が多いように思う。
    家に入ったら傷つけてしまうから…と。

    でも、家に入って傷つくのはその人も一緒。
    家に入って中にいる私がしんどくて、
    その人を拒絶するかもしれない。
    その人に当たってしまうかもしれない。

    それでも中に入って話を聞き、
    抱きしめてくれるような人
    が優しいと感じるのだ。
    いや、行動としての話ではなくて、
    精神的な話なので、私が言っているのは、
    実際に抱きしめる…というよりも、その人のココロをだ。
    そういう考え方の話…

    だからもちろん、恋人同士でなくても、
    同性の友達同士でも、家族でも、仕事仲間でも、
    そんな人が私にとっての『優しい』だ。

    だから私も、自分にとって大切な人であるならば、
    そんな優しさを持ちたいと思っている。

  • 好きなものは好き

    2011/07/10

    maro日記

    人に自分の弱さを普通に言えるのはカッコいいと思う。
    自分の好きなものを周りの目を気にしないで好きだと言えることは、
    カッコいいと思う。
    自分の自信のない部分を隠さないことはカッコいいと思う。
    主張しなくても自分の考えは前にでる。

    昔私は今以上に周りの評価を気にしていた。
    無意識に…

    小さい頃、聖闘士星矢ってアニメがやっていて、
    私は大好きだった。でも親は男の子の見るもんだ…と言っていたので、
    好きだとは言えなかった。

    私はテストでいい点を取ること、
    マンガを読まないで本を読むこと、
    身なりをキチッとしてチャラチャラしないこと、
    そういうことが大人受けすることを知っていた。
    そして、それが正しいことだと思ってきた。

    でも、そうしているうちに、ほとんどのことを、
    周りの目を通してしか見られなくなった。

    例えば本を読む。
    純粋におもしろいかどうかじゃなく、
    『これはおもしろいんだ』
    とちょっと上の人から言われたら、
    『おもしろく感じなきゃいけないんだ!』
    と思って、おもしろいと思い込んでいたりした。

    私には私の意見はないし、
    大人に従順。自分の服の好みも、
    母が『これいいね!』って言ってくれそうなのを選んだ。
    自分の好きなものはなく、人の好きだと思ったものを
    好きだと思い込む…
    まあ、本当に全部が全部ではないんだろうけど。

    それがだんだん自分でもわかってくる。
    私は何が好きなのかわからない。
    それでもそれを認めたくない自分もいた。
    私はできる。
    人よりも上。
    そんな考えが、本当に自然に私の中にあった。


    でも、本当は違うのだ。
    そして、自分を知らないということは
    すごくもったいないし、
    楽しくない。私はもう楽しいと思い込むのは嫌なんだ。

    私は私自身で私の好きなことを知り、
    それを人と違っても隠さない。
    恥ずかしいことじゃない。
    そして、堂々としておく。


    私は自分の弱さを隠したり、
    逆に前に押し出したり、
    そんな無理をしないで
    自然にいつものように抱えておく。

    そしてワハハと笑うのだ。

  • 走る。歩く。立ち止まり、また走る。

    2011/07/10

    maro日記

    もう、本当すべてのこと。

    一回立ち止まったとき、多分走り始めるまでがとても難しい。
    でも、いろんな事情をかかえ、そしてもう一度スタートする。
    走りはじめたらこっちのもんだ!…なんて言いたいところだけれど、
    なかなかそういうわけにもいかない。


    ゴールは一体どこなんだ?


    周りはものすごいスピードで走り抜けているような、
    そんな気がして不安になってしまうから、
    私は目を閉じることにした。
    私は私だけを見て、私だけのゴールを目指して走る。

    立ち止まったり、後ずさりしたり、前に何とか1歩踏み出してみたり。

    全然ゴールとは違う方向を向いているかもしれない…
    このゴール自体、私の求めているものなのか…
    まだ見ぬゴールを考えると不安もこみ上げてくる。
    息もだんだん切れてくる。
    始めのやる気も何が何だかわからない。
    こんなことして、何になるんだ?
    どうせ、私には無理なんだ。

    …いろいろ私の頭をよぎっていく。


    それでも、なんとか前に進む。
    『さあ、目を開けてみよう!』


    周りは周りで悪戦苦闘。
    それぞれのゴールもスピードもバラバラで、
    比べることはできない。
    そんな事実が、やっと私を解放する。


    そんな私、思い切って後ろを振り返ってみると
    あのスタートをきった位置はもう見えない。
    どれくらい進んだのか、どれくらいで着くのか、
    果たしてゴールは存在するのか、
    全部不明。誰も知らない。


    ただ、この進んできた道のりは、
    確かに私のものなのだ。

  • デッドボールを投げつける!

    2011/07/09

    maro日記

    例えば、絵を描いているとする。

    とてもきれいな絵。
    でも何か物足りない、これが完成ではないと感じたとき、
    失敗覚悟で付け足す、塗る、元の絵を壊す。
    そうすると、出来上がりはとても不細工でも、
    きれいな絵には足りなかった何かが現れる。


    例えば、大切な誰か。
    自分の言いたいことをなかなかわかってもらえない。
    これ以上言っても不愉快に思われるだけだということ、
    難しくてわかってもらえないことはわかっている。
    だけど、私は言葉を出す、当てる…何とかわかってほしくて。
    そうすると、相手が不愉快でも、
    何か伝えたいこと、本気だということが相手に伝わる。


    もちろんこれはいいこととは言えない。
    すごくわかっている。
    大切なものは大切にするべきだ。
    ただ、すごく大事なものや人ほど、
    ぶつけたくなる自分がいる。

    いや、ぶつかっても変わらないかもしれないし、
    もっと悪くなってしまう可能性の方が大きいかもしれない。

    だけど、グチャグチャに塗ってしまいたいとか、
    言い争いになってメチャクチャになってしまいたいとか、
    そういうことではなくて、
    もっと深く…ということだ。

    その先で出会えることが、
    私にとってすごくいい!と言えるものであり、
    本当の安心感を得られる何かな気がしてならない。


    そんな私は、デッドッボールを投げ続けるのだ。

  • まさかの帰り道

    はい!私は今家に帰り、シャワーを浴びました。
    『似顔絵描き中止!!』
    雨は降ってません。


    私には2つの大きな傷がある。
    これはどんなに理由をつけても、
    納得することも受け入れることもできない。

    1つはKの死。
    そしてもう一つはアンチな父との関係。

    この『もう一つの方』はすべて終わったと思っていた。
    それが今日の朝、蒸し返されたのだ。
    そんなこんなで、今家なのだ。

  • ボクはこいつが好きなんだ

    2011/07/08

    maro日記

    まずお知らせ!
    明日7月9日土曜、昼頃から17時くらいまで
    京都三条京阪駅前にて
    似顔絵をお描きします!

      写真フレーム付¥1000
    B5サイズフレーム付¥3000




    人を評価する表現はすごくたくさんある。

    キレイ、かわいい、カッコいい、ステキ、
    好き、良い、すごい、頭良い、偉い…

    特に競技やコンテストなんかだと、
    優勝、金賞…

    いろんな評価がつく。
    みなさんはそんな言葉を言われるのが一番嬉しいだろうか?



    例えば私の身近な焼き物をやっている人は、
    『すごい!』が好きみたい。


    私は『好き』とか『いい!』が一番嬉しい。
    万人の評価じゃなくて、その人個人の評価だから。
    それに、絵の技術的な善し悪しは私自信あまりわからないし…

    何の基準もなく、ただ好きと思ってくれていることが、
    私にとっては一番。
    その人の正直な思いが、その絵の価値までも上げていく。
    その人にとって、いろんな絵の中で、
    すごく気に入っていること、
    それは、評論家が評価することと
    私にとっては変わらないように思う。
    持ち主であるその人が、
    評論家であろうがなかろうがどちらでもいいことだ。


    いや、絵で食べていこうとか思うのならば、
    やっぱりある程度の裏づけがあった方がいいんだろうけれど。


    売れるとやっぱり嬉しいけれど、例えば似顔絵を描くにしても、
    『似顔絵描いてほしくて…誰でも良かったんだけど…』
    と100人来るよりも、
    『あなたの絵が良かったから引き返してきちゃった!』
    って言ってくれる人が1人いる方が、私はすごく嬉しい。
    実際そういう人が来るとものすごく嬉しかったし、
    路上で描いていると、結構いる。


    需要と供給を全く無視したこの考え方、
    一人くらいいてもアリでしょ?!

  • K

    2011/07/08

    maro日記

    私は今幸せだ。

    ただ、幸せになってまだ一年もたっていない。
    だから、この降ってわいたような幸せには慣れていない。


    私は1年も前に人生が巻き戻ってしまったら、
    『人生なんていいこと無し。生きていけるだけの
    希望も安心もなにもないじゃないか。
    年を取った人は、この苦しい人生をただ生きてきたというだけで、
    本当に尊敬するほどすごいことなんだなあ。』なんて思っていた。


    私は幸せだ。

    私の心の中で天変地異が起こって、
    本当に180度変わった。


    そのキッカケは一人の死。


    そのことの多くは語るつもりはない。
    けど、その人が私を180度変えた。
    本当に奇跡はあるんだと感じた。

    不幸が当たり前になっていた私、
    けれど、その人が亡くなってから、
    本当に人生が魔法がかかったみたいに、
    普通に私は幸せな人になった。
    でも、この人が周りに何かしたわけでもなく、
    私の不幸をただ持っていってくれた感じ。
    マジックなのだ。
    きっと周りにきいても、変わったのは別に
    その人のおかげだとは思っていないと思う。

    周りみんなが敵みたいだったのに、
    今はみんなが味方。
    身内も職場も友達も…

    ただ、私はその死を引きずっている。
    本当に私にとって大切な人だったから。


    私はその人が大好きだったから、
    今もしこの幸せと引き換えに不慮の事故を
    なかったことにしてくれると言われるならば、
    私は不幸を選ぶだろう。


    だけど、私は今幸せだ。
    もちろんいろんな人の支えはある。
    でも、きっとそれはKのおかげだと
    私は思わざるを得ないのだ。

  • 願い事

    2011/07/07

    maro日記

    今日は七夕。
    短冊に願い事は…私書いていません。



    でも、もし一つだけかなうならば…
    会いたい人がいる。

    二度と会うことはできないあの人に。




    願わずにはいられません。

  • 今思うこと

    いつもは、ほとんど『今』のことは書いてないんだけれど、
    ちょっと今起こっていて、今思うことしゃべってみる。


    私ってもともとネガティブよりな
    人間ではあると思うんだけれど、
    ブログに書いてることは
    めちゃくちゃポジティブだと思って書いている。

    ネガティブを通過してのポジティブだから、
    結構ネガティブのイメージのほうが強すぎて、
    『大丈夫?』みたいに思われがちかなぁ。

    私がブログを書くときにすごく気にしてしまうのは、
    私の思う『良くない人』を叩きすぎやしないかということ。
    結構否定しちゃってるから、それにあたる人が、
    気分を悪くしないだろうか・・・
    だから、極力『これっておかしくない?』
    じゃなくて、『おかしいと私は思う。』
    にするようにしている。
    私個人の意見にしたいから。

    それに、たぶん逆に自分を良く書きすぎている部分が
    大いにあるはず・・・
    自意識過剰かなあとかも思うくらい。
    ちゃんとわかっているんです。(笑)
    そういう部分すごく不安。

    けど、『落ち込まないでね。』
    なんて逆に優しい言葉をかけてくれる人には、
    『前は最悪だったけど、今めっちゃいい感じなんだよ!』
    的な小憎らしいことを書いているだけに、
    なんともいえない申し訳なさが・・・

    いや、コメントしてない人で、
    私の思ういやな言い方をしている部分や、
    否定しちゃってるとこで、
    いやな気持ちになっている人もたぶんいる。


    まあ、ブログで何かを伝えようと思うと、
    なかなか難しいみたい。
    だから、まれに本当に本当に私の素直に言いたいことを
    コメントする方にビタッと当てられると、
    ものすごくジャンプしたい気持ちになるんです!

  • たぶんさなぎになる私

    2011/07/07

    maro日記

    このごろ眠い…
    とにかく眠い…

    天気のせい?
    エアコンのせい?

    実はそういうわけでモノクロが多かったりする
    最近の絵。


    このまま眠っちゃってサナギになっちゃったりして…


    さあ、私は蝶になるのか蛾になるのか…?

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